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概要

NaigaiNenshi

第4章:新時代への挑戦[1983-2013]4で、指示書だけでなく梱包明細などを全て英語で作成し、造船会社から叱咤を受けながらの作業となった。ただ、同プロジェクトはその後のイランイラク戦争激化により中断、消滅してしまった。90(同2)年には本社工場の敷地内に自動車タイヤ用チューブの出荷センターが完成した。自動車タイヤ用チューブは受託製造を始めた頃から、当社で製造した全量を住友ゴム工業の製品センター(神戸)に引き取ってもらい、そこからユーザーの出荷予定に合わせてメーカーや全国のダンロップ物流センターに出荷されていた。ある頃から、製品センターを通さずに直接出荷できれば物流コストの無駄が省けるのではと、手法を模索してきたが、製造履歴の追跡や納期管理面での不安から実現されずにいた。当社としても新たな事業機会となることから直接出荷の拠点となる出荷倉庫の建設を決断。常時在庫に必要な倉庫面積、カートン梱包作業場の配置などレイアウト案の作成を進めた。検討の結果、チューブ工場に隣接したテニスコートを用地に充て建設に着手。並行して倉庫の作業内容の習熟を図るため、チューブ出荷の担当者を住友ゴム工業の製品センターに派遣し、トレーサビリティ(製造履歴の追跡)、ジャストインタイム(必要なものを、必要なときに、必要な数量だけ調達・生産する仕組み)などの考え方を学ばせた。直接出荷の切り替えまでに、電算室と生産技術の若手従業員が製造履歴を追跡できるシステムを開発した。90(同2)年9月の倉庫稼働とともに、直接出荷を開始。製造したチューブをシュリンク包装するラインは新たな設備を導入したが、住友ゴム工業から支給された包装材料との相性が悪く、稼働当初は遅くまで残業が続いた。製造履歴追跡システムの習熟と包装作業を並行して行い、新規の作業方法確立に改善を重ねた。95(同7)年の阪神・淡路大震災で住友ゴム工業の製品センターが倒壊し稼働不能になった際には、チューブ以外の自動車タイヤ用部品の中継拠点作業の依頼を受けたことが、そのまま業務の拡大につながった。ナイガイサービスではこのほか、履物外注生産業務を受託し、出荷までの一貫体制を敷いてコストダウンを図った。92(同4)年からは、ナイガイサービスを通じてフィリピンのベストラバー社と提携し、学納サンダルの現地生産も始めた。定年後の再雇用体制を確立当時、60歳定年後の再雇用については明確な基準を設けず、必要に応じ対象者を個別に検討して決めていた。しかし、1997(平成9)年から99(同11)年の3年間で60歳定年を迎える人員が31人に達し、2000(同12)年以降になると当該者がさらに増加することから、制度をしっかりと整備して、退職した熟練者を活用していくことが求められていた。そこで、97(同9)年にガイドラインを作成した。再雇用者はナイガイサービス所属とし、定年後の処遇、雇用期限については同社の責任において行い、当社からの人員供給要請に応え人材を派遣することとした。比の会社と技術援助契約を締結フィリピンではかねてから、ヘンリー・シー氏が当社の「ビーチウォーク」を輸入していた。シー氏はフィリピンの華人財閥の総帥で、一代で街角の靴屋からフィリピン最大のデパートチェーン「シューマート」を築き上げた百貨店王として知られる人物であった。しかし、その後、フィリピン政府が外資不足を補うために輸入制限措置を設け、履物の輸入は禁止となった。そこで1965(昭和40)年以降、当社は材料となるスポンジ板と鼻緒の練りゴムをシー氏が経営する工場向けに輸出し、技術援助というかたちで支援を行っていた。シー氏は77(同52)年に来日し、当社を訪ねてきた。フィリピンでの生産を拡大するために現地生産するよう申し入れてきたもので、生産規模は1日5,000足、投資総額は1億5,000万円弱のプロジェクトであった。しかし、その後の円高の進行と97