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概要

NaigaiNenshi

第3章:雌伏の時代[1964-1982]3然のことながら初期トラブルが頻発した。その後もモールドリリース機構の安定化には時間がかかったが、やがてインジェクションも増設していき、それに伴ってモールドリリース機構にも改善を施した。それでも赤字だと報告され、メンバーはがくぜんとしていた。コストだけでなくさらに時間短縮ということで、発泡剤の種類について検討した。発泡剤の分解時の発熱が大きいDPTを使用することによって時間短縮が図れたが、結局臭いの発生で採用不可となった。発泡剤TSHについても生産がなくなり、これに代わるものとしてOBSH/ACのブレンド系に変更し以後約十数年、この発泡系で進めていった。ある時、掃除機の新製品発売に合わせて新サイズのモータークッションを設計し、指定日までに金型作成、試作品の型検を行った。一時期音の静かな掃除機の要望が強くなり、従来に比べかなり凝った形状のものができた。何とか金型を設計し、金型が入荷すると早速加硫して寸法を測定し、データとサンプルを持って訪ねたが「NO」の判定。すぐ金型を修理して持ってくるようにとのことだった。発売の日は迫り翌日には新聞発表が控えていた。まだ冷え切らない金型を分解して修正に入り、その晩中に納入という綱渡りの試作を行ったエピソードもある。8鮭鱒浮子製造ラインの近代化(1982年9月)新製品エフロートのオンラインに引き続き、従来製法の浮子の近代化を目指した第1弾として鮭鱒浮子製造ラインの近代化に取り組み、1次・2次加硫、同期化、穴開けの自動化を行った。生産性の大幅な改善を達成するとともに省エネルギーにも大きく寄与した。9チューブ製造ラインの近代化(79年~82年)各工程においては、運搬作業を廃した集約化、自動運搬化を図り、バルブ貼りの無人化、押し出しチューブの自動取り上げなどを進めていった。また工程間の連絡をスムーズにするために情報伝達システムを導入。設備機械、押し出し機、成型機、プレスなどを増設して生産増強体制を整えていった。東京出張所開設から東京支店へ海運省や鉄道省などの指定工場を受けていた1933(昭和8)年、中央官庁との折衝のため、東京出張所を開設。初代所長には鴻谷喜代治が就いた。45(同20)年、太平洋戦争の激化により閉鎖となったが、47(同22)年に再開し、自転車用タイヤ・チューブのためのゴム資材の確保に努めた。52(同27)年に東京都中央区日本橋の神戸銀行日本橋支店の2階に移転し、翌年には東京支店となった。8人体制で、東京の巨大な市場を中心に関東一円から北信越、東北、北海道地域まで販路を広げ、履物や漁網用浮子、籾摺りロール、軟式野球ボール、ソフトボール、自転車用タイヤ・チューブなど多種多様な製品を販売した。61(同36)年から7年間は取締役の岡崎藤雄が陣頭指揮を執り、さらなる販路拡大に尽力した。69(同44)年、日本橋から渋谷区桜丘に事務所を移し、97(平成9)年には東京支店開設50周年記念キャンペーンを展開して大々的な販売拡大に取り組んだ。2004(同16)年に港区新橋の新和ビルに移転し、現在に至っている。神戸と福岡に営業拠点1974(昭和49)年に第1次オイルショック、82(同57)年には第2次オイルショックが到来し、業績は伸び悩んだ。80(同55)年9月に企業体質改善委員会を設置し、体質強化への対応策を実施するとともに、営業部においても販売強化対策を実施し、全社一丸となった販売促進活動を展開した。79(同54)年2月には神戸営業部、翌年7月には福岡営業所を新設した。福岡営業所は、当時スポーツ用品のメーカー、代理店が集中していた博85