ブックタイトルNaigaiNenshi

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概要

NaigaiNenshi

第3章:雌伏の時代[1964-1982]3重労働から解放された。2次加硫については金型そのものの材質についても検討した。熱伝導の良いアルミ型の検討(後に型の摩耗による寸法不良が発生)も行い、最終的には加硫時間は30数%短縮できた。穴開けも従来はドリルに1人ずつかかりきりで行っていたのが、自動穴開け機へと変わっていった。次に、取引先から粉塵の出ないフロートということで、2次加硫後の製品にドリルで穴を開けるのではなく、2次加硫と同時に穴の開いたフロートのできる金型の要望が強まった。金型費用の負担の関係で実施に踏み切れずにいたが、日本電装の三角フロートでピンタイプと称する、加硫時に1次加硫品をピンに差しこれを2次加硫することにした。従来の浮子の2次加硫同様横型にするか縦型にするかを検討の末、取り数の関係で縦型に決まり、金型の分割法をイメージしながらうまく下型に製品が残るような構造と金型開き順を決定し、金型を作製した。少しぜいたくではあったが、プレスは開いてから製品の乗った下型が前に出てきて製品を取り出す構造にした。こうして2次加硫のピンタイプ化は他のサイズにも拡大され、粉塵はもちろん穴ズレや穴途中といった自動穴開け機の不良もかなりの部分で解消された。その後は海外生産に移行し、社内での生産・改善はほとんどなくなった。配合面でのコストダウンを部分的に行い、現在に至る。5都市ガス、プロパンガス計量膜生産ラインの近代化(1981年2月)ゴム引布の裁断からパッキンゴム、ゴム引布の装填、加硫製品取り出しまでの加硫工程の全自動化ライン完成により生産性が高まった。ガス膜の技術開発について1970(昭和45)年当時のガス膜は角型の形状をしていた。ガス膜の製造現場は比較的きれいなプレスがきれいにレイアウトされ、他の職場に比べれば近代的であった。半加硫されたパッキンのバリを竹べらでこすり取り、この上に缶で1次加硫したトッピングシートを乗せ金型を閉じ、エアブローと加硫をしていた。慣れない新人だと熱いプレスに手が当たり、やけどをしながらの作業だった。当時、器差の変動の少ないガスメーターが求められていたことから、深さが安定した膜の製造が品質面での目標となった。1次加硫した膜を2次加硫でエアブロー、ヒートセットし、冷却して取り出すという方法は1次加硫の度合い、エアブローでの伸張の影響が出て、経時により膜が収縮するという性質が常につきまとった。このため工程的には1次加硫度のコントロールと2次加硫時のシートの押し込み治具の高さを検討した。膜の1次加硫が膜の収縮の原因と判断し、1次加硫なしで生のシートを加硫して収縮のない膜の製法を検討し、製法を確立した。平面の膜シートを四角い皿状に絞り込むということでコーナー部にどうしてもテンションをかけなければならず、コーナー部の収縮と強度低下を来した。一方、ガス会社では角型より丸型の方が縦横のバランスがよく器差も安定するのではと考え、丸型膜(当時N-2)の試作も始まりかけていた。当時、CHCというポリマーも上市され、これについての検討も始まっていた。当社はNBRの筋道で進むとの方針で、その理由をメーターメーカーにも説明していた。試作してはメーターメーカーにサンプルを持ち込み、器差・経時による変化測定を依頼し、性能の安定化を目指した。当時の試作状況を見ると、100枚の試作品を提出するのに300枚も400枚も作って深さを測定していた。それだけ製法に問題があったのかもしれない。そうするうちに競合他社は量産化が進みメーターメーカーへの納入も始まった。角型膜では先行していた当社が、いつの間にか後発メーカーに追い抜かれてしまったのである。後れを取ったが、一から出直すつもりで実験計画法を用いて、N膜の製法について材料・製造工程の検討を行っ81