ブックタイトルNaigaiNenshi

ページ
69/204

このページは NaigaiNenshi の電子ブックに掲載されている69ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

NaigaiNenshi

第3章:雌伏の時代[1964-1982]3もなお、数台が活躍している。岡崎藤雄が社長に就任岡崎真一は社長就任2年後の1970(昭和45)年7月に、岡崎藤雄に社長を委譲し、会長になった。岡崎藤雄は61(同36)年に当社取締役(非常勤)に就任。その後、本社および東京支店勤務を経て、68(同43)年に常務に就いた。日本ゴム工業会常任理事、兵庫ゴム工業会会長、兵庫県経営者協会理事、日本ゴム履物協会理事、財団法人神戸保育園理事長などの役職も務めた。岡崎真一は71(同46)年1月に逝去。第2代社長の秦野も後を追うように亡くなった。刑務所に製造委託1970(昭和45)年頃、明石市大久保の刑務所に履物の内職を依頼したことがある。刑務所から履物の製品加工か内職をやらせてほしいとの要望があり、1年弱実施したのだった。限られたスペースのため設備を持っていくことはできず、溶剤を使用する内職程度の部品加工しかなかったが、それでもよいということであった。刑務所に材料の受け渡し、引き取り、指導で訪れる時は、まず事務所に通され、ポケットの物は全て事務所に置き、持ってきた荷物ケースを抜き取りで検査され、作業場に向かった。その際、必ず「囚人とは作業のこと以外、無駄話をしないこと」の指岡崎真一の次男、藤雄は33歳の若さで第4代社長に就いた示を受けた。作業員は模範囚とのことで、熱心な仕事ぶりで、作業に慣れてくると品質も向上し品物はきれいに仕上がった。1年ほどして刑務所の方から加工単価を上げてほしいとの要求があったが、交渉の末折り合いがつかず断念することになった。住友ゴム工業と業務提携1971(昭和46)年はドルショックにより株が大暴落し、市場の景気は極めて厳しい状況にあった。公害問題が多発し、製造業は公害防止設備の設置を余儀なくされ、多大な投資を余儀なくされた。当社の業績も大きく低下し、臨時工を含む従業員約100人をやむなく整理した。72(同47)年は田中角栄首相が日本列島改造論を掲げ景気回復を目指したが、土地の暴騰や賃金アップ率が20%を突破し、労務コストが経営を大きく圧迫した。このような情勢下、同年6月、神戸銀行(現三井住友銀行)のあっせんにより、住友ゴム工業株式会社と業務提携を締結した。当社の株の35%を住友ゴム工業が取得し、役員も受け入れた。そして、自動車タイヤ用チューブを全面的に受託生産することになった。新たにチューブ工場(延べ床面積5,929m2)の建設に着手し、住友ゴム工業から生産設備を譲り受けるとともに新規設備を買い入れた。総投資額は9億円だった。12月に工場が完成し、住友ゴム工業技術陣の指導応援を得て自動車タイヤ用チューブの生産が始まった。翌73(同48)年には自動車タイヤ用チューブ(573014)および二輪自動車タイヤ用チューブ(573015)のJIS表示を許可された。工場がフル操業に至るまで、住友ゴム工業から飛石大二副社長、森久雄取締役、羽室隆次取締役、伊木義和取締役ら18人に出向していただき、長期間にわたり指導教育を仰いだ。飛石副社長は当時日本ゴム協会関西支部の支部長を務め、後に日本ゴム協会会長に就くなど、ゴム業界に精通した人格者であった。毎日工場内を巡回しては誰彼となく声を掛け、良い面・悪い面についての把握に努めようとした。昼休みの休憩67