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概要

NaigaiNenshi

第3章:雌伏の時代[1964-1982]3それを認め、数年先に甲・中底を射出塩ビに仕様変更するまでこの方法が続けられた。数年後、ニューモードのバンド・中底のゴムによる加硫加工費が合わなくなり、ゴムを廃止し射出塩ビに素材を変更することになった。「新しく射出モールドを作製するのだから一部デザインの変更をしてはどうか」との案が出されたが、代理店や営業部からの強い反対を受け、ゴムの時と全く同じデザインの甲・中底が別々のセパレートタイプに落ち着いた。甲・中底一体型の射出品では安物感があるというのが代理店の言い分だった。現在のような射出塩ビの甲・中底一体成型品になるのは94(平成6)年。現在も主製品として残っている。67(昭和42)年にはニューモードの販売が年間50~60万足に落ち込んだ。「同じようなデザインで、価格の安い製品を学校向けに供給してほしい」との代理店の要望により生まれたのが「学園モード」である。ソールの厚みを10mmから8mmに、ヒールの厚みを18.5mmから9.5mmに変更し、バンドの形状は一つ窓を二つ窓にデザイン変更した。材料費を少し抑えることによって単価を低くし、数量は出た。最盛期は78(同53)~80(同55)年頃で、年間15万足を販売した。しかし一体成型に仕様変更することなく、2002(平成14)年には廃番となる。学園モードに代わる「スクールモード」が順調に伸びていたためだ。65(昭和40)年、履物製造班には男性52人、女性206人の合計258人の従業員が在籍していた。女性のうち20~25%は地方の新卒者を受け入れ、そのほとんどは工場敷地内の女子寮もしくは炭坑離職者用団地に入居した。従業員数がピークを迎えたのがこの頃のことである。なお、同年9月6日に近畿地方を襲った台風23号により、瀬戸川堤防が一部決壊し、明石工場も大きな被害を受けた。バッティングセンターブームで特需野球人気がどんどん高まっていった1960年代には、ボール製品の需要が急増した。野球ブームに乗って66(昭和41)年に全国各地にバッティングセンターが誕生したのである。バッティングセンターでは多量のボールを使用するため生産が追い付かず、代理店などから矢のような催促があった。もっともブームは長く続かず、一過性の特需に終わった。東京オリンピックが終わると特需の反動で、日本経済は急降下するように縮小していった。金融引き締めが重なって多くの大手証券会社が赤字に陥り、65(同40)年に証券不況が起きた。この不況の拡大を防止するため、日銀特融が山一証券に対して初めて行われた。同年3月、兵庫県内では山陽特殊製鋼株式会社(本社姫路市)が会社更生法の適用を申請し、事実上倒産した。負債額は当時としては最高の約500億円であった。景気後退によって鉄鋼需要が低迷し、過剰投資を回収することができなかったことがその要因であった。岡崎真一が社長に就任生産部門の明石工場への統合移転を決断した1968(昭和43)年、社長の秦野平七は退任し、後任に岡崎真一が就任した。岡崎は同和火災海上保険株式会社社長、参議院議員、神戸商工会議所会頭を歴任。当社では65(同40)年から取締役(非常勤)に就いていた。岡崎が社長に就任した頃、不況の影響が当社をむしばんでいた。中でも主力商品の自転車用タイヤ・チューブが自転車の売れ行き低迷ととも第3代社長に就任した岡崎真一65