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概要

NaigaiNenshi

生産プロセスの効率化を目指して生産プロセスの効率化を図るべく、企業コンサルタントの指導により、全業種、全職場のワークサンプリングを実施したのは1963(昭和38)年頃のことである。総務部、製造部からメンバーが選ばれ、数日にわたって現場の作業動作状況をチェックし、データをまとめていった。30分か1時間おきにターゲットの作業者の手の動き(動いているか、止まっているか、次作業待ちか、しゃべっている06スポーツ用品課員嘉藤栄吉[かとう・えいきち]1950(昭和25)年、明石工場に訪れた高松宮殿下の前で、トップボールを使ってバッティングを披露した1933(昭和8)年の夏の甲子園(当時は全国中等学校優勝野球大会)で、中京商と明石中が球史に残る25イニング、4時間55分の死闘を繰り広げた。この時、明石中の二塁手として活躍したのが、当時15歳だった嘉藤栄吉である。25回裏、無死満塁のピンチ。打球は嘉藤が守るセカンドに転がった。本塁への送球は無情にもわずかに高くそれ、サヨナラのホームを踏まれた。試合後1週間は自宅から出られなかったという。父親に促され、神戸の寄席に出掛けると、漫才師が悪送球をネタにしていた。失意の少年にとってあまりに残酷な仕打ちだった。第2次世界大戦に出征し、復員後、47(同22)年2月に入社。準硬式球「トップボール」の開発に尽力した。「延長25回の反省があったから、その後の人生で大きな失敗はなかった」と当社での仕事人生をつつがなく送った喜びを語った。「試合のことを笑って振り返られる余裕ができたのは還暦を過ぎてからだった」そうで、退職後は壮絶な試合の語り部として多くの講演に呼ばれ、新聞社のインタビューを受けた。「試合前の食事はおかゆ1杯と卵2個。長時間の試合で一番困ったのは腹が減ったこと。砂糖水をがぶがぶ飲みながら戦ったが、みんなへとへとだった」「延長戦を戦ううち観客も疲れてか応援しなくなり、球場が異様なまでの静寂に包まれた。スコアボードが足りなくなり、板を継ぎ足す金槌の音が聞こえた」と当時の様子をつぶさに語った。「なぜ最後の打球が嘉藤さんのもとに飛んだのか」という質問に対しては、「あの時、こっちに打ってこいと思えなかった。人の体と同じ。弱いところから病気になっていく。だから、チームで一番弱かった人間の前にボールが転がってきた」。嘉藤は苦い記憶を抱えながらも常に明るく前向きに振り返った。「ヒットを打って喜ぶのもいいが、最後に失敗するのもいい。それも幸せなことだ」2003(平成15)年の夏の高校野球兵庫大会では始球式を務めた。温厚な人柄で誰からも愛された嘉藤は08(同20)年7月、90歳で亡くなった。告別式当日は、後輩に当たる明石高ナインが地元の明石球場で全国高校野球選手権西兵庫大会を戦い、三木高に4-2で競り勝った。野球との縁を最期まで2003(平成15)年、明石中のレプリカユニ感じさせる人フォームに身を包み、夏の高校野球兵庫大生だった。会で始球式を務めた(神戸新聞社提供)60