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概要

NaigaiNenshi

第2章:戦後の躍進[1945-1963]2第19回から長崎県諌早市の中村合名会社社長、中村房一氏を第2代会長に選任。第20回はホテルフジタ京都で開催した。鴨川のほとりにあったこのホテルは、当時、石原裕次郎や高倉健など映画スターが定宿としており、抜群のロケーションを誇っていた。第25回は当社70周年と重なり、感謝を込めて記念表彰額を会員に贈呈した。ホテル神戸において、社長の岡崎藤雄はあいさつでC.I.S(コーポレート・アイデンティティ・システム)導入計画を発表。当社の“顔”を確立し、統一的企業イメージの開発と新たな企業像を創造し飛躍の礎とする旨を宣誓した。また、懇親会では神戸南京町の春節祭を祝う獅子舞が繰り広げられ、勇壮で威勢のいい舞に皆の箸が止まるなど神戸らしい演出を楽しんだ。85(同60)年の第27回の講演は、元読売ジャイアンツの土井正三氏を迎え、ジャイアンツ9連覇に懸けた野球人生等、目標達成に対する態度に感銘。第28回では将棋界の異才、酒と演歌と駒の音で知られる内藤國雄九段が講演し、中でも「おゆき」の熱唱は日頃のテレビでは味わえない感動を受けた。いずれも有馬グランドホテルでの開催であったが、当時は学納品であるニューモード等の予約販売に躍起になっていた時代でもあった。第30回の会場は神戸営業部が入っていた三宮国際ビルで、日本大相撲協会年寄の田子ノ浦親方を招き相撲界の裏話など興味ある話を聞くことができ好評を得た。第31回以降は開催月を神戸ケミカル展示会の日程に合わせることになり、商品展示に力を入れる傾向になっていった。第32回は、講演に演歌「花街の母」で知られる作詞家のもず唱平氏を迎え、歌手の川中美幸との中国大陸での各地親善公演のエピソード等を聞き、夜はオリエンタルホテルでの親睦会を実施した。その後、履物生産体制の一部が系列会社のナイガイサービスへ移行したほか、輸入商品の増加や異業種参入に伴い流通形態が多様化したことにより代理店会の意義も薄れていった。結果的に丸菱会はこの第32回で終わることになった。以後は、会則の慶弔規定に従い、その部分のみ継続してきたが、2004(平成16)年11月、中村会長が逝去され、また12年間の休会期間もあり会員数も35社まで減少していた。監査役の株式会社日下部の社長、日下部斐郎氏に最終監査を依頼し、書状にて丸菱会解散を報告した。以降、神戸ケミカル展示会の年3回と全国サンダルフェアの年2回の出展機会を得て、新製品発表会として充実させ現在に至っている。女性工員が大量入社し履物製造1950年代から60年代にかけて、高度成長期の企業を支えたのが、中学卒業後すぐに就職した若者労働者だ。人手不足から各企業とも労働者の確保に躍起になり、その貴重さから「金の卵」と呼ばれた。当社でも毎年女子養成工を採用し、その多くを履物製造部に配属。62(昭和37)年には明石工場の隣接地に女子寮を建設した。当時、明石工場の西側を流れる瀬戸川の土手は広く、春になると一面の芝生の緑がまばゆいほどだった。従業員たちはそこで昼食を取ったり、輪になって談笑をしたりと、笑い声が響くのどかな環境にあった。ただ、いったん工場の現場に戻ると作業に追いまくられた。この頃、盛んに製造していたのが、事業所や学校の上履き用に開発した「丸菱スリッパ」だ。甲と中底には発泡度を極力抑えたソリッドに近い2mm程度のゴムスポンジを適度な軟らかさにして使用し、底には4~5mmの硬度50~60(Cタイプ)のしっかりとしたスポンジを使用していた。ヒールには5mmの軟質スポンジとした。このスリッパはとても丈夫で他社製品を圧倒した人気があった。時代の流れとともに素材がビニールレザーに変わり、底も少し発泡度を上げソフトにした。学校履きには校章を印刷したため、重宝がられた。59