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概要

NaigaiNenshi

第2章:戦後の躍進[1945-1963]2メーカーで新団体を設立して適切な措置を講ずべきことに意見の一致を見た。59(同34)年2月9日、全国のスポンジ草履一貫生産業者が集まり、輸出スポンジ草履工業会が結成された。会長には当社社長の秦野が就任し、常務理事には兵庫ゴム工業会の井上清氏、その他理事10人、監事2人の合計14人の役員構成であった。これを輸出スポンジ草履の買い取り機関として、協定に参加した22社は製造した全てのアメリカ向け輸出スポンジ草履をこの買い取り機関に売り渡すことが義務付けられ、その指図によってのみ製品を出荷する仕組みである。11月30日、当時の池田勇人通産大臣に申請を出し即日認可を受けた。このカルテルは成功を収め、62(同37)年3月末まで続いた。成功した商品の陰で撤退も1959(昭和34)年に新製品「フォームラバー」を開発し、明石工場内にフォームラバー工場を建設した。ここでもスポンジゴムの技術が100パーセント発揮され、フォームラバーが使われたマットレスや敷布団などは新しい生活必需品として好評であった。2年後の61(同36)年には工場を増築し、全国的に販売していく。しかし、ブリヂストンタイヤや東洋ゴム工業など大手企業との競合が激化し、65(同40)年に撤退を余儀なくされた。「米国人パスティン氏が持ち込んできたビーチサンダルが国内外に爆発的なブームとなりましたが、業界に遅れをとったフォームラバーとボウリングボールは失敗に終わり業績不振に陥りました。借入金が増加し、資金調達も困難な状況が続きました」と、岩間は当時の状況を説明している。また、「兵庫ゴム工業史」には「時代は動き、古い製品は姿を消す。押し流された中にゴムロール、ゴムライニング、列車用ゴムホース、フォームラバーがある。戦後手がけた製品で日の目を見ずに終わったものも数多くある。瓶詰め用パッキング、乳首、水鉄砲、トカゲ、蛸壺、疑似餌、ビーチボール、ラインホール、床用ゴム板などがそれである」と書かれている。皮革サンダルのバリエーション増1960(昭和35)年頃、パスティン氏から依頼を受け、皮革サンダルシリーズを生産していた。「皮ローマン」「皮グリーシャン」「皮ハワイアン」「皮エジプシャン」、そして「ゴムシーウォーク」「ピラミッド」「3M」などといった商品である。バンドは皮革を、中底にはビニールで芯を巻いたものを使い、ソールは研磨をかけた。全て輸出用だった。皮ローマンは特に人気が高く、後にバンドもビニールに仕様変更して国内向けに販売したのが「ローマンウォーク」だった。67(同42)年にはすでに販売を開始しており、一時期、当社の履物部を支える人気商品となった。この開発において苦労したのが、一つに白いビニール、もう一つが前緒だった。当時、白いビニールは黄変しやすく、変色しないものを求めてメーカー探しに奔走。結果、現在のアキレス株式会社との取皮ローマンの素材を全てビニールレザーに置き換えた「ローマンウォーク」57