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概要

NaigaiNenshi

当社を支えたパートナー企業各種製品は多くのパートナー企業からの協力なくしては完成を見なかった。明石市小久保に株式会社小崎が創業したのは1953(昭和28)年のことである。小崎は履物用芯材を中心に中芯や先芯、本底などを生産した。当社との取引も古く、60(同35)年のアメリカ向け輸出サンダルに使用するプレスボード中底芯などにも大量に使用した。また、当社が日本で初めて履物に使用したのではないかといわれる椰子の繊維(パームロック)を紹介してくれたのも小崎だった。千草スリッパの製造においては当時、中日産業株式会社で営業を担当していた熊谷明雄氏(現株式会社フクセン社長)の貢献が大きかった。スリッパに使うべっちんは大手商社から大きなロットで購入するしかなかったが、熊谷氏から「1色1mからでも販売する」という提案があり早速、大量注文することになった。59(同34)年頃のことである。これを機に両社は太いパイプで結ばれることとなった。ケミカルシューズ産業の隆盛1953(昭和28)年頃、加硫用の塩化ビニールレザーが国内で加工されるようになった。西日本はサンスター株式会社、東日本では興国化学工業株式会社(現アキレス株式会社)が大手メーカーとして生産を手掛けた。当時はビニールとゴムの接着が不十分であったため、完璧に接着できるようになれば「産業革命を起こすだろう」といわれていた。同年、接着剤メーカーの努力によりこの問題が克服され、その後、地場産業として定着する神戸のケミカルシューズ産業の幕開けとなった。もっとも「ケミカルシューズ」として総称されるのは後になってからのことで、当時は「高級布靴」「ニューモード靴」「ニュースタイルシューズ」「ファッションシューズ」「ビニールシューズ」など、業者が勝手に名付けていた。54(同29)年、東京の履物卸組合が今後続々と出てくるであろう新化学素材を含め対応できるようにケミカルシューズと名付けたのが始まりといわれている。当社がケミカルシューズの製造販売に着手するのはまだ先であったが、履物部門ではケミカル素材を使っており、また、ビーチウォークなどの成功によりサンダル専門の製造販売の会社として日本の履物業界にその名を知ってもらうには、それほどの年数はかからなかった。作曲家の団伊玖磨氏は当時の随筆で次のように書いている。「この20年ばかりの間に、日本文化はずいぶんと世界中に進出していった。音楽では武満徹君の作品・演奏家では小澤征爾君。そして歌舞伎・能・民族芸能もどんどん海外に進出していった。ちょうどそれと同時に日本からゴム草履が世54いち早く「ブルーダイヤ」を扱った神奈川県葉山の「げんべい」〈1955(昭和30)年頃〉「千草スリッパ」の新聞広告(1950年代後期)