ブックタイトルNaigaiNenshi

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概要

NaigaiNenshi

第2章:戦後の躍進[1945-1963]2あった。組合のメンバーは17社であった。組合員でないアウトサイダーの26社は実用新案の実施を黙認するということになった。スポンジ草履の輸出が急増スポンジ草履の輸出の急増ぶりは劇的ですらあった。通産省の統計によるとゴム草履の生産は1953(昭和28)年以降、漸減傾向を見せていた。同年の生産は月平均で134万足、翌54(同29)年は111万足、55(同30)年は94万足と減り、輸出もそれぞれ3万足、6万足、7万足とまだ低い水準であった。ここでいうゴム草履は、従来型のゴム草履である。その後、スポンジ草履が出現すると状況は一変する。50年代後半から輸出が急増し始め、月平均10万足台となり、その後は輸出が増える分だけ生産が増えるようになっていった。57(同32)年1月に19万足だったものが、7月には一気に100万足の大台に乗り、年末には150万足に達した。そして58(同33)年末には500万足を超え、59(同34)年にはついに1,000万足を突破した。59(同34)年における他のゴム草履類の輸出額当社のスポンジ製スリッパの躍進を伝える1953(昭和28)年9月11日の「日用品新聞」は、地下足袋6万ドル、ゴム底布靴561万ドル、総ゴム靴561万ドル、ケミカルシューズ530万ドルと推計されたのに対し、スポンジ草履は945万ドルと突出していた。輸出用スポンジ草履生産の中心地は兵庫県で、初期には兵庫県のシェアが6、7割に達していた。国内向けビーチサンダルを発売独立気泡スポンジゴムは、スポンジ草履のほかにもさまざまな形で商品に生かし、スリッパやサンダルなどの履物類、家畜用マットを生産した。特に1953(昭和28)年に開発した漁網用浮子は、従来の桐材料に取って代わり、急速に生産を拡大した。また、国内販売用としてビーチ用のサンダルを開発した。ビーチウォークと見た目はよく似ているが日本人向けに改良した。サイズはインチサイズとし、鼻緒はビーチウォークより太くした。「ブルーダイヤ」と命名し、販売を開始した。日本でも有数の海水浴場として知られる神奈川県葉山にある履物店が最初にブルーダイヤを売ってくれた。その店「げんべい」は、現在では国内トップクラスのビーチサンダル専門店となっている。この頃、国内向けのスポンジ履物として「千草スリッパ」「丸菱草履」などの生産も始めた。丸菱草履はべっちん鼻緒で、左右同型とした男性用の軽装草履であった。輸出用のビーチウォーク(ブルーダイヤを含む)、国内向けの千草スリッパ、丸菱草履は当社の3大履物として収益を支えた。53