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概要

NaigaiNenshi

ンジ出現で一躍寵児に飛躍年間三十億円を稼いうに及ばず、東京都内の百貨店で同店のゴム製品ぐ」の見出しで、独立気泡スポンジ製スリッパののないところは先づ考えられないといわれており、開発の経緯が書かれている。「戦後から三年に近い幾分誇飾されてはいるが先づ本当のところだろう。ブランクのまゝ終戦を迎えたスリツパ界は、これこれから加藤ゴムの実力は相当評価されても不自から再建にとりかゝつたが、内外ゴムKKでは戦然ではないわけだ。」と書かれている。前も大分出廻わつていたスポンジの性質をスリツパにより生かす事に着目し、同じく戦前にアメリカR社の独占にあつたスポンジ製造の特殊製造工程を、同社の至宝であり、ゴム界の至宝である生田製造部長の年を費しての苦心惨澹なる工夫、研究の結果、遂に同氏独自の生産技術を発見するに至った。この生産技術を駆使して作られたスポンジを無毒単独気泡という。(中略)内外ゴムなくしてスリツパ界の発展なく、生田氏なくして今日のスリツパ界もないと言う事になる。」と当社の果たした役割を記している。また、当時強力な代理店であった株式会社加藤ゴム(加藤吟治郎社長)との関係にも触れている。「月産莫大な量に上る製品を消化するため内外ゴムの代理店としてわたりをつけた加藤氏のけい眼もさる事ながら、加藤ゴムの実力に眼をつけた内外もさすがだというのは巷の雀の噂である。因みに、加藤ゴムの販路面を見てみると阪急、阪神の百貨店は「合同ゴム通信」1952(昭和27)年1月15日、当社工場が新年早々に本格稼働した様子を伝えている権利侵害の申請を解決もっとも全てがとんとん拍子に進んだわけではなかった。東京所在の東洋護謨化学工業株式会社と、主として兵庫県のゴム業者との間に、同社の持つ「独立気泡多孔性ゴムの履物使用」に関する実用新案をめぐってトラブルが発生した。新しく登場したスポンジ草履やスポンジスリッパを指摘して、これは東洋護謨の実用新案権を侵害するものだと言い立てた。この仲介に入ったのが、1950(昭和25)年に会員相互の啓発、親睦、連絡ならびに協調を図り、ゴム工業の改良、発達に資することを目的に発足した兵庫ゴム工業会であった。当社社長の秦野平七が同会の理事を務めていた。東洋護謨化学工業は、当社を筆頭とする兵庫県の40数社と大阪、岡山、広島にある数工場を攻撃した。スポンジゴムを使用した履物は全てこれに引っ掛かるものと解され、警告を受けた各社は「スポンジ履物はすでに公知公用に属するもので、侵害の非難を受けるいわれはない」と反論した。日本ゴム工業会の岡田孝治郎常務理事と兵庫ゴム工業会の井上清常務理事が仲立ちし、協議の結果、52(同27)年9月16日に解決の運びとなった。その内容は東洋護謨化学工業に100万円を支払い、共有権を受けるというものだった。この時、兵庫県ゴム工業協同組合が60万円を支払って共有権を受け組合員会社にこの権利を与えるというもので52