ブックタイトルNaigaiNenshi

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概要

NaigaiNenshi

ビーチウォークの輸出を開始パスティン氏はこの製品を「ビーチウォーク」と名付け、ポスターまで準備して大々的に売り出そうとしていた。ポスターには当社のロゴ“丸菱マーク”も入っていた。1955(昭和30)年、第1号のビーチウォークが華々しくアメリカへ輸出され、瞬く間にヒット商品となった。翌年にはハワイで月10万足も売れたという話もある。輸出された当初の価格は1.95ドルで当時の1ドル360円のレートで換算すると702円ほど。その後、2ドル45セント(882円)ぐらいまで引き上げられた。ビーチウォークは世界053代目技師長生田庄太郎[いくた・しょうたろう]内外護謨合資会社が設立した1913(大正2)年、愛媛県に生まれ、小学5年生から横浜の母方の叔父夫婦の下で育てられた。35(昭和10)年に桐生高等工業学校を卒業後、入社した。42(同17)年に初代技師長、竹内惣七の長女と結婚。46(同21)年に取締役技術部長兼技師長に就任した。49(同24)年に準硬式ボールB号(トップボール)、50(同25)年にはソフトボール、さらに51(同26)年には独立気泡スポンジを発明した。この独立気泡スポンジを使って、アメリカ人、レイ・パスティン氏とスポンジ草履「ビーチウォーク」の開発に成功。その後、発泡技術を生かした数々の発明を手掛け、関連組織(機関)から幾多の表彰を受けるなど、当社の発展に寄与した。生田は従業員教育用の小誌「ゴム初等教育入門」を書き残している。ゴム技術をはじめ、数学や物理、化学など、班長や係長クラスに必要な内容が載っている。巻頭には次のように書いている。「世界第2位のゴム製品製造高の業界でありながら、何故儲からないのか、何故つぶれる会社が多いのか、それは従業員の教育を無視し、ただ働け働けで仕事を理解して働くと言う人が少ないからである。働く限りには、仕事の内容を理解し、仕事を愛する気持ちを持つ。そんな心を持って仕事をしている人が少ないからである。仕事を愛し、理解すれば不良が少なくなり、改善・改良も出来、原価も安くなり利益が生まれ、会社も発展する。その為にはゴムを知らなければならない。その為の教育である」。生田が強くゴムを愛し、会社を愛した人物であったことをうかがい知ることができる。70(同45)年に取締役を退き、翌年は顧問を務めた。その後、竹内化学工業㈱や朝日護謨工業㈱の相談役となり、86(同61)年に永眠するまで、カメラや囲碁、熱帯魚の飼育観賞などの趣味を楽しんだ。長女、豊下幸子さんによれば生田は医師になりたかったそうだが、家庭の経済事情により諦めたという。「父は自分の夢がかなわなかった分、子どもにはやりたいことをやらせたいという思いが強かったようです」と話す。幸子さんは内科医として活躍している。生田が作成した「ゴム初等教育入門」50