ブックタイトルNaigaiNenshi

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概要

NaigaiNenshi

206837号)。従来の連続気泡スポンジと独立気泡スポンジは、気泡が空気を通すか通さないかに大きな違いがある。連続気泡とは、海綿や台所で食器洗浄に使うスポンジを思い浮かべると分かりやすいだろう。内部の気泡が連なっているため、空気を通したり、液体を吸い込んだりする性質がある。一方、独立気泡スポンジも内部に気泡があるが、気泡同士が壁で仕切られているので空気を通さず液体を吸収することもない、ソリッドゴム(気泡のないゴム板)と比べて軽い、気泡の中に気体が含まれているため弾力性がありクッションの役目を果たす、音を吸収するなどの特徴がある。この機能的なスポンジをなんとか生活用品に応用できないか。生田はさまざまなアイデアを考えた。そして、一人のアメリカ人との出会いが、社業の発展に大きくつながっていく。日本の履物に感動した米国人戦後、アメリカは日本の産業復興を後押しするために、各分野の専門家を日本に送り込んでいた。その一人、レイ・パスティン氏はサンフランシスコ出身の工業デザイナーで、シューズデザインの分野で活躍していた。復興プロジェクトの活動の中で、日本の文化や風習に触れたパスティン氏は大きな衝撃を受けた。その一つが日本独自の履物文化だった。足の指で鼻緒を挟む草履や下駄はアメリカにはないものだった。これらの履物は左右同じ形をしており、甲を覆う甲被部分がない。彼の目には不思議な履物に映った。しかし、このような履物で浜辺を歩いたら、砂はすぐに払い落とせるし、暑い時に蒸れる心配がない。きわめて合理的な履物であった。そのようなことを考えながら、パスティン氏はプロジェクトの仕事を終え、アメリカに戻った。帰国後も、日本で見た草履のことがパスティン氏の頭から離れなかった。シンプルなデザイン、脱着しやすい機能性、東洋の神秘さえ思わせるこの履物を何としてでもアメリカで販売したいと思った。ただ、販売するにはコスト、生産効率、素材、デザイン等の問題点を克服しなければならなかった。日本の工場では生産効率が悪く、しかも輸送経費等を考慮するとコストがかさんでしまう。スマートさに欠ける草履がアメリカで受け入れられるかどうかも不安だった。デザインはシンプルに徹し、素材はクッション性のあるスポンジのソールにソリッドのゴム鼻緒を使うこと。左右それぞれの形状とし、日本で製造する…。アイデアが固まっていった。そして1951(昭和26)年、ビーチサンダルの原案を持って再来日するのである。パスティン氏と生田技師長の出会いパスティン氏は、3年間練りに練った企画書をバッグに詰め、草履や下駄を生産している日本のメーカーに話を持ち込んだ。当時、敗戦国の日本人はアメリカ人に反感を持っており、約束を取り付けるだけでも苦労した。何とか話は聞いてもらえても、日本人には下駄や草履の左右の形状が異なり、しかもゴムで作ることなど想像できなかった。メーカーからはことごとく断られ、あっという間に7、8らちカ月が過ぎた。履物メーカーを攻めても埒が明かないと考えたパスティン氏は、ゴム会社を探そうと思レイ・パスティン氏い立った。それでも話に乗ってくれる会社はなかっ48