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概要

NaigaiNenshi

第2章:戦後の躍進[1945-1963]2手権大会)で中京商を相手に25イニング、4時間55分の大熱戦を展開した明石中の二塁手で、その後当社に入社した。「一番」の意味で名付けたトップボールに普及のめどが立ったのは、49(同24)年12月、神戸市の王子動物園東のグラウンドで開かれた社会人の全神戸選抜軟式野球大会で初めて公式球として採用されてからのことだ。「1試合に10個もつぶれてしまい、ボール選びに大わらわだった」と生村は振り返っている。その後も研究を重ね、50(同25)年には全日本軟式野球連盟の指定球に採用された。この年、高松宮殿下が明石工場を訪れてトップボールの製造工程を視察された。トップボールの名前と新しさ、そして「六三制野球ばかりが強くなり」の世と相まって全国に広まり、55(同30)年には生産量がピークに達した。その後、63(同38)年まで横ばいを続け、「屋根瓦が壊れた。塀が壊れた」との苦情とともに、売れ行きは下降の一途をたどった。学生の全国大会では全日本大学準硬式、同選抜準硬式野球大会で使われているが、社会人では常陸宮全日本準硬式野球大会だけになった。76(同51)年11月25日付のデイリースポーツに「名選手育ての親“トップボール”」の見出しで、トップボールが野球界に貢献した内容が取り上げられた。「子どもの頃兄貴に野球を教えてもらった。トップボールを使っていた。カレーライス一杯の褒美目当てに兄貴のチームの手伝いに行った」と江夏豊投手(当時南海ホークス)が語り、藤田平選手(当時阪神タイガース)は「中学時代、トップボールの独特のツウ・バウンド目にヒューッと伸びるゴロのタイミングに泣かされた。内野手としての基礎はこのボールに作られたようなもの」と、トップボールを使っていた時代を懐かしんでいる。独立気泡スポンジゴムを発明3代目技師長を務めた生田庄太郎は終戦を迎える直前、軍部からある要請を受けていた。追撃したアメリカ軍の爆撃機を分解調査したところ、燃料タンク部分に見たこともない特殊なゴムが見つかり、「これと同様のものを早急に試作せよ」とのことだった。素材は確かにゴムであり、燃料タンクが被弾しても燃料漏れを防ぐ役割を果たしていたものと思われた。ゴムは軽く、弾力性も優れていた。ゴムに気泡を持たせるとスポンジになることは分かっていた。しかし従来のスポンジは水を吸った。生田は来る日も来る日も研究に打ち込み、ついに水を吸わないスポンジ、独立気泡スポンジを発明した。「独立気泡スポンジゴムの製造法発明」として特許を申請し、認定された(製造特許第高松宮殿下(前列中央)と役員、幹部社員との記念撮影。前列向かって左から、岡崎真一、侍従、榎並充造、秦野平七、高松宮殿下、岡崎忠雄、侍従、侍従、生村徳平47