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概要

NaigaiNenshi

記録はそのことを裏付けるものであろう。こうして明治末期から兵庫県のゴム工業界と辛酸を共にした最高の指導者は静かに退いた。社長を退任した翌49(同24)年10月、榎並は脳出血のため一時重体に陥る。それから2年後の51(同26)年2月に永眠した。一方、秦野はこの後、68(同43)年まで20年間、当社の社長を務めることになる。042代目技師長小松勝二[こまつ・かつじ]の社長(後に会長)の榎並正一氏は「試験設備ができて配合ゴムが分析できるようになってから、念のため分析してみると小松さんの判定とほとんど変わらない結果が出たというから驚きである。小松さんは常に『ゴムは生きている』と言っていた」というエピソードを語っている。無類の酒好きで部下を引き連れて一晩中飲むことが常だった。ボーナスは一度も家に持ち帰ったことがなかったという。43(同18)年死去。社葬には数千人が参列した。彼が1884(明治17)年徳島県に生まれる。1908(同41)年、残した配合ゴムの技術が後年の軟式野球ボールなど現在の神戸市長田区にあった日本イングラム護謨株の開発につながった。式会社に入社。11(同44)年、イングラム社がダンロップ護謨株式会社に吸収合併されたのを機に、工業薬品を扱っていた河西善兵衛の人脈から榎並充造や岡崎忠雄らと知り合い、13(大正2)年の内外護謨合資会社設立時に採用された。33(昭和8)年に初代技師長、竹内惣七の後任となる。“配合の魔術師”と呼ばれ、関西のゴム業界では知らぬ人がいないほど有名な存在で、配合したゴムを噛んでその良しあしを判定することができたと人力車用タイヤなどの輸出に関連して上海出張所に出向くこともあった(左から3人目)いう。阪東調帯護謨株式会社〈1914(大正3)年〉44