ブックタイトルNaigaiNenshi

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概要

NaigaiNenshi

第1章:創業期[1913-1944]147(同22)年4月に発足した兵庫ゴム工業協同組合はゴム協連による生産資材の共同購入・配給事業廃止の対応策として同年10月、ゴム工業資材株式会社を設立し、翌年から業務を開始した。44(同19)年に当社に入社した帆山正明は、終戦後に退社し、ゴム統制組合兵庫支社の工業用ゴム製品関係資材委員として活躍していたが、ゴム工業資材の設立と同時に取締役として招かれた。その後、神戸商工会議所の化学工業部会長を長く務め、神戸経済界では著名な存在となる。また、47(同22)年、戦争の影響で閉鎖していた東京出張所を再開した。秦野平七が社長に就任1948(昭和23)年5月、創業以来35年にわたって当社の経営を引っ張ってきた榎並が退任し、秦野平七に社長を譲ることを決断した。秦野は神戸海上火災保険株式会社(後に同和火災海上)の名古屋支店長であり、株式会社岡崎本店の常務取締役などを歴任した。これは、創業時に株式の半分を保有した榎並系から、4分の1を保有していた岡崎忠雄系へと経営権が委譲されたことを意味する。この決断を行った榎並の心境は知る由もない。ただ、榎並が創設した阪東調帯護謨と当社の工場が共に戦災で焼失し、敗戦後の混乱した時期に2つを同時に再建しなければならぬ努力を一方に集中するため、他方をその共同出資者であった岡崎第2代社長に就いた秦野平七一族の経営に委ねたのだろうと考えることはできる。「磊落な半面、きわめて堅実で慎重な一面をもち、石橋を叩いてわたる人」(当時の専務取締役、都賀の証言)であった榎並が、創業以来手塩にかけて育て上げた当社を手離す決心をした時の心境はどのようなものであったろう。榎並はこの時、68歳だった。その前年の47(同22)年1月4日、いわゆる公職追放令が拡大され、“戦争に協力した”とされる政治家、実業家、官公吏、文筆家などの主だった人々の公職就任が禁止された。榎並も該当者としてこの枠に入ったのである。このことも榎並の心境に大きな変化をもたらしたことは想像に難くない。榎並が同年、自らの生前葬を自宅で挙げたというNaigai Column1938(昭和13)年7月5日、折からの豪雨による阪神大水害が神戸を襲った。鴻谷喜代治(1924(大正13)年入社、元取締役東京支店長)は70年史の寄稿で、当時の様子をこう振り返っている。「昭和13年6月から降り続いた長雨で地盤が緩んでいたところ、7月はじめの豪雨が重なり、六甲山から神戸の山手いったいは岩をも流す大洪水に襲われた。工場は浸水を続けていた。榎並社長が出社されており、ぽつぽつ出勤してきた近隣の従業員を指揮し、工場内の防災整理、それに罹災従業員宅、出征中の従業員宅にまで炊き出しをして配達指示をされていた。そのうちに濁社長の榎並の陣頭指揮で阪神大水害を乗り切る水はかさを増して糊引き工場のモーターが浸水し始めた。モーターの修復に半月はかかる。管理工場は緊急事態には即刻報告の義務が課されていたのである。被服本弊との渉外を担当していた私は、思案の挙句、意を決して船便利用にかけることにした。午後、会社を飛び出し、やっとの思いで兵庫島桟橋から船上の人になることを得た、海は泥水で一面真っ黄色だった、午後5時頃天保山についた、直ちに電話をかけ、東区法円坂町に駆けつけた。監理官に面談のうえ、神戸の被害状況と当工場の実態を報告することができた」43