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概要

NaigaiNenshi

焼壊家屋6万4,653戸、半焼壊家屋1,079戸、工場全焼壊823、同半焼壊32、罹災人口23万6,106人を数えた(神戸市史第3集・社会文化編より)。ゴム工場の最も集中していた林田区は広範囲に灰じんに帰した。当社も菅原通の本社事務所と松野通の神戸工場が全焼壊となった。ただ、兵庫区御所通にあった工場は戦災を免れた。神戸のゴム工場は日本ダンロップ護謨、阪東調帯護謨なども全焼して跡形もなく、主力ゴム会社の大半が甚大な被害を受けた。戦災面積37%とはいえ、半壊半焼の残存はものの役に立たず、生産再開のめどはまったくつかない状態であったという。明石工場の当時の状況について、柏木は次のように語っている。「神戸空襲があった当時、明石工場のグラウンド一面は芋畑にして、食料自足に役立てていた。食糧事情が逼迫し、東京の技術会議に出かけるときは白米を持参しなければならなかった。明石工場へこられるお客さんは銀飯がお目当てだったのである。白米とキス2匹があれば現在の高級料理にも及びつかないご馳走だったのである」また、終戦までの状況について岩間は「昭和20年3月の神戸空襲により、長田の本社工場は廃墟となった。焼失を免れた長田交差点近くの長田寮で一同思案に暮れておりました。8月15日にはこの長田寮で、冬のズボンにゲートルを巻き、汗を流しながら新会社「内外ゴム株式会社」設立のあいさつ状終戦のラジオ放送を聴いた」と振り返っている。こうして太平洋戦争は8月15日に終結した。敗戦の虚脱から貿易再開へ戦災の傷跡は大きく、当時神戸にあった51のゴム工場のうち29工場が被災し、22工場だけが残った。当社は、本社工場の復旧に先駆けて、明石工場の完成を優先した。大手工場ではこのように工場立地を再編して復興した例が多い。戦災を免れた御所工場で自転車用タイヤ・チューブの生産を始めた。当時、ゴム製品は物々交換の商品として法外な価格で取引された。1945(昭和20)年、政府から「軍需品生産用に引き当てた資材をすべて民需品に切り替える」との方針が打ち出された。そして、翌年には、商工省指定事業場となり、兵庫県重要工場の指定も受け、民需品への生産転換を迫られることとなった。当社は100%軍需品を生産していた関係上、民需品への切り替えが困難であったが、47(同22)年には原料ゴムの割り当てを受け、野球ボールA号、籾摺機用ゴムロールの製造を開始した。貿易はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の管理下に置かれていた。戦前に豊富な輸出実績を持つ兵庫県のゴム業界は、GHQに対してゴム製品の南方向け輸出再開の陳情を行ったが「国内需要の充足を優先すべし、過程を見た上で輸出許可を与える」との返事であった。その後、48(同23)年8月に、輸出に関してのみ制限付きではあったが民間貿易の再開が認められることになった。輸出適格工場として戦後初めての指定を受けた工場は、自動車および自転車のタイヤ・チューブ分野で7工場、ゴム履物工場では14工場で、当社もその中に含まれた。42