ブックタイトルNaigaiNenshi

ページ
43/204

このページは NaigaiNenshi の電子ブックに掲載されている43ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

NaigaiNenshi

第1章:創業期[1913-1944]1社名変更と明石工場の建設当社は1943(昭和18)年、軍需省管理工場に指定されたのを機に、新たに資本金100万円の「内外ゴム株式会社」を設立した。これに内外護謨合資会社を吸収して、資本金150万円の新会社が誕生した。また軍需品の増産要望を受け、同年には明石市魚住にあった製紙工場3万3,000m2を63万円で買収して明石工場を建設した。この地域は水が豊富で、水不足の時は近隣の田畑に水を供給して喜ばれたという。明石工場の建設について岩間は70年史の中で「昭和18年、製紙工場だった現本社工場を買収した。戦時中でもあり、資金調整法の制限から、申請手続きには苦労した。航空機用ゴム部品の生産増強という名目でさいわいにも認可され、その後も周辺の土地を順次買い取りながら今日の工場敷地を獲得できた。これが内外ゴム発展の基礎となったことを思うと、いささか感慨無量です」とつづっている。航空機タイヤ部門を分離タイヤ部門を切り離した後、残存設備を拡充し航空機タイヤの製造に切り替えた。軍需省の発注で順調に航空機タイヤを作っていたところ、軍需省航空兵器総局からある要請があった。「兵庫ゴム工業史」の中で、副社長の榎並正一がその経緯について触れている。「(航空機タイヤを製造していたが)3カ月以内に製造量を3倍とか5倍にせよ、という命令がきた。場所がないならどこでもいいから勝手に見つけろ。見つけたらみなやる、というのです。やるといわれても民間業者ではそう簡単にはいかない。その頃大日本紡績さんがゴムの進出に大変意欲的になっておられ、そこでその話が進んだのです」「その話」とは、大日本紡績株式会社と当社が共同で航空機タイヤの専門工場を設立しようとする計画だ。社名は大日本航空機タイヤ株式会社。資本金は300万円で、出資比率は内外ゴム4に対し、大日本紡績が6。当社としては気乗り薄であったが、軍需省航空兵器総局の要請とあっては断ることは難しかったといわれる。当社の機械設備と高度な技術を導入して、泉大津に大日本航空機タイヤの工場が誕生した。この大日本航空機タイヤは終戦時には重戦闘機および偵察機用タイヤの月産能力が1,000本の水準に達していたといわれ、1945(昭和20)年8月20日、大津ゴム工業株式会社と改称した。後のオーツタイヤ株式会社の前身である。神戸大空襲で大きな被害1945(昭和20)年3月17日の夜、神戸市西部はアメリカの戦闘機B29、B69機による焼夷弾、爆弾など数万発の投下のため、一面が火の海となった。神戸大空襲である。死者2,598人、負傷者8,558人、全Naigai Column取り付け騒ぎの日に預金1927(昭和2)年4月8日の銀行取り付け騒ぎの時の状況について雀部昌之介は、著書「私は六十年社員」でこう記している。「この取り付け騒ぎの日、私は榎並さんから『岡崎銀行柳原支店へ預金してくるように』と命令を受けた。いつ支払い停止になるかわからんから、早いところ金を引き出しておこうと、列を作っているところへ、札束をどっさり持ち込んでカウンターに並べ、『預金します』と言ったのだから、周りの人々を驚かせた。岡崎銀行、後の神戸銀行の創始者は岡崎藤吉さんでお世話になっており、その息子さんの忠雄さんとは神戸一中の同窓。その銀行が苦境にあるなら、一つ預金のデモンストレーションをやって沈めてやろうという心意気であったろう、同時に私は“頓知”を感じたものだ。さっと頭にひらめきを茶目っ気交じりに行動であらわすといったところが榎並さんらしい」、榎並の人柄を表すエピソードである。41