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概要

NaigaiNenshi

工場は当初の整備計画では消滅するはずであった。紆余曲折を経て、当社と日本輪業ゴムは東洋ゴム化工へ自動車タイヤ部門を譲渡することになった。このため、東洋ゴム化工は生き残り、日本輪業ゴムは消滅することとなった。当社はどうなったのか。タイヤ部門を切り離した後、残存設備を拡充し、航空機タイヤの製造へと切り替えることとなった。当時の専務取締役、都賀清一は「兵庫ゴム工業史」の中で、「安売り競争の激しい中をやっと育て上げた自動車タイヤ部門を第1次企業整備でただ本数が少ないというだけの理由で手放さなければならなかった時の気持ちは忘れようにも忘れられない」と、悔しさをにじませている。軍需品製造への転換第2次世界大戦時の経済下で広範に行われた企業整備により、航空機タイヤの製造に専念することになった当社は、1943(昭和18)年には軍需省指定管理工場となった。ちなみに、当時から終戦までの間に生産した軍需品は、航空機タイヤ、戦車のキャタピラ、大砲の緩衝ゴム、魚雷発射管部品、伝声管ホース、防毒面などであった。特に防毒面については陸軍被服本廠より生産指示を受け、渋谷ゴム工場(松野工場と改める)を買収し、防毒面専門工場とした。この防毒面の生産について柏木一之(1934(昭和9)年入社、元取締役・明石工場長)は、「戦時中に防毒面を作っていた。当時関係者以外には機密でみなには知らされなかった。防毒面の材質ゴムが皮膚に影響があるのではないかという実験台に使われたことがある。手首にゴムの試験片をあて、包帯でぐるぐる巻かされた。毎日陸軍の監督官に異常の有無を調べられ、1カ月間も外の人にはけがだということになっていた」と振り返っている。また、岩間治三郎(1940(昭和15)年入社、元取締役経理部長)は軍需品の生産について当社70年史で触れている。「形の変わった大きなゴムパッキンが海軍省から注文があり、納期も短く、技術陣を動員、非常な努力と苦労で作り上げて納入した。後でわかったことだが、これが真珠湾攻撃の特殊潜航艇のマンホールのパッキンだったと驚いたこともあった。当時、軍部にとって当社は便利な指定工場として大いに活用された。被服廠からは防毒面、造兵兵器廠からは火砲戦車や艦艇の諸部品の製造に追い立てられていた。それだけに、技術の優秀なことは定評があり、特に合成ゴム加工技術は他社を抜いていたと思う」また、自転車タイヤ工場は当時31工場を数えていたが、タイヤ生産は19工場だけに割り当てられた。その中に当社も含まれていた。内外護謨合資会社昭和18年4月製造685×220高圧制動車輪常用内圧3kg/cm2NO12当社が寄贈した戦闘機。機体に「内外ゴム」と入っている本社工場に残る戦闘機の後輪40