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概要

NaigaiNenshi

第1章:創業期[1913-1944]1増産する。また、鉄道省指定工場となり、列車ゴムホースの納入を開始した。同年、伏見宮博恭王が当社工場を台覧されるという光栄に浴す。また、エチオピアの外務大臣も工場を視察に訪れた。34(同9)年には、陸軍より防毒面3,000個の試作受注があった。その後、37(同12)年に生産指示を受け、本格的な生産に入っていく。また、33(同8)年には東京出張所を神田須田町に開設した。合成ゴムの製造に挑む1938(昭和13)年、政府はゴム産業に対し、ゴムの使用制限、ゴム靴の販売制限、ゴム配給統制規則の3つの処置法を発令した。阪神大水害の4日後、神戸のゴム工業が混乱したさなかでのことであった。ゴム使用制限では、23項目のゴム製品の製造を禁止した。この中には、総ゴム長靴、総ゴム短靴、ゴム草履および下駄、ゴムバンド、スポンジ、おもちゃ、運動用品などが含まれていた。ただし、民需を対象としたものでも商工大臣の許可を得たものは製造しても差し支えなかった。一方、世界のゴム産業に目を転じると、アメリカのデュポン社が合成ゴムのクロロプレンゴムの製造に成功していた。当社では39(同14)年、合エチオピアの外務大臣が視察のため来社成ゴムの製造に着手したとの記録が、日本ゴム協会編集の「ゴム技術の十年史」に載っている。きっかけは、日本窒素肥料株式会社が朝鮮の興南に置いていた工場で合成ゴムの試作品を製造し、そこでできた合成ゴムを当社に持ってきたのが始まりであった。小さな桶に浮いている白い豆腐のカスのようなものが合成ゴムだったらしく、日本企業が製造した合成ゴムの走りとされる。日本窒素肥料から若手の技術者が来て、合成ゴムの加工の試験を行った。研究用のため、製品は作らなかったが、試作したのは大砲の中に使われるパッキンのようなもので耐油性のゴムであったという。このエピソードは当社の技術水準が極めて高かった例証である。ちなみに当時、合成ゴムの値段は銀に匹敵するといわれていた。自動車用タイヤ・チューブ事業を手放す1940(昭和15)年、日本は徐々に物資不足が懸念され、米、みそ、しょうゆ、砂糖、マッチ、木炭などの生活必需物資が切符制になった。商工省は翌41(同16)年に、第1次企業整備処置を発動する。ゴム産業においては、生ゴムの多い順に工場を並べ、生ゴムの配給量により、将来の発展性を考え、つぶす工場、統合すべき工場、そのまま製造してもよい工場などを選定した。その基準は、「日産300本の製造能力を持たない会社は整理統合すべし」というものであった。そしてつぶす候補になった工場にはゴムの配給がなされないのである。兵庫県のゴム工業会社のうち、日本ダンロップ護謨、日本タイヤ、横濵護謨製造の3社統合が決まった。また、兵庫県内の他の3つの工場・事業所、当社、日本輪業ゴム、東洋ゴム化工尼崎39