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概要

NaigaiNenshi

合組長で内外護謨の創設者の一人であった河西も祝辞を述べた。県主催の地場工業品展示会としては史上最大の規模で、7日間の会期中は連日多くの人でにぎわい、大成功を収めた。東洋ゴム新聞30(同5)年5月号の記事によると、当社は人力車・三輪車・オート三輪車・飛行機用のタイヤ、中袋、ホース、マット、エボナイト電槽、巻きロール、キャンドルフィルター、レントゲン用ボール、人造絹糸用エボナイト洗浄棒、電纜収束管、ゴム長靴、オーバーシューズなどを出品したとある。また、出品の中央には侍従御差遣之光栄という大きな立て札が置かれていた。前年、天皇陛下が県内の産業御奨励のため代表工業の情勢を視察された際、当社工場へ侍従をお差し遣えになった光栄を記念したものである。なお、当時、兵庫県には185のゴム工場があった。自動車用タイヤ・チューブの販売競争昭和初期、全国の自動車タイヤの生産は飛躍的に伸びる。1931(昭和6)年まではまったく自転車タイヤに及ばなかったが、32(同7)年、ついに自転車タイヤの生産量を追い越す。その後は差が開く一方で、36(同11)年には輸出量でも自転車タイヤを追い抜き、やがて自動車タイヤ工業はわが国のゴム工業を支える大きな存在となる。当社は22(大正11)年にタイヤの製造を始めていたものの規模は小さく、国内の生産量の4分の3がダンロップ護謨によって占められ、第1次世界大戦開始以来輸出したタイヤ類、ことに自動車タイヤの大部分はダンロップ製品であった。31(昭和6)年、わが国の金輸出再禁止に伴い、日本の為替相場が急落したため輸出は伸びたが、輸入は大きな影響を受けた。日本市場で大きな力を持っていた輸入品は採算が合わなくなり、グッドイヤータイヤ、ユーエスタイヤ、ケリータイヤ、ミラータイヤなどは市場から姿を消した。かくしてダンロップ護謨、横濱護謨、それに東京護謨、当社、日本輪業ゴムなどを加えた国産品時代に入り、ようやく事業の好機が到来したかに見えた。ところが、この年から国産タイヤの製造を開始したブリッヂストンタイヤ株式会社が着々と地歩を固め、既成業界に対し一大攻勢をかけた。弱小であった東京護謨や一部の品種しか製造していなかった当社、日本輪業の地盤がまず切り崩されていくことになる。日産自動車が国産第1号の自動車を生産したのは35(同10)年のことである。陸軍から防毒面の試作受注当社は1931(昭和6)年に軍需省管理工場に指定され、明石工場を増設し、航空機タイヤなどを1931(昭和66)年、伏見宮博恭王(前列中央)が当社工場を台覧された時の一枚38