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概要

NaigaiNenshi

職工の数は308人にまで増えている。生産品目としては人力車用タイヤ・チューブ、自転車用タイヤ・チューブ、ホース、ロール、マット、エボナイトなどが挙げられている。デモクラシー運動で労働争議も当社は自動車用タイヤ・チューブ以外にも新たなゴム製品分野を切り開いていった。1925(大正14)年にラジオが輸入され、内地放送が開始された。これに合わせてラジオ組み立てに必要なエボナイトパネルを生産した。これが好評で需要が激増した。翌26(同15)年には海軍省指定工場となり横須賀、呉、舞鶴、佐世保工廠に船舶用ゴム製品を納入することになる。23(同12)年に生産を始めた自動車用タイヤ・チューブは、日華事変が起こる前には大阪、神戸、京都の市バスに納入していたが、国内におけるタイヤメーカーでの乱売合戦となったため、当社は為替で有利な海外市場を開拓していった。シンガポール、インド、欧州、南米に活路を求め、有利な価格で販売した。28(昭和3)年から製造を始めた、米の籾を取り除くための籾摺ロールも品質に優れ、全国に向けて販売することになった。勢いに乗った籾摺ロールは海を渡り、京城(現ソウル)に出張所を設け、販売に当たった。この頃、国内各所で労働争議が起こり、8時間労働への時間短縮、さらには賃金要求があった。21(大正10)年、川崎、三菱の労働大争議を機に37(昭和12)年の日華事変の勃発まで10年以上続くことになる。当社においても2 6(大正1 5)年5月に争議があり、5 0人が参加した。これに伴い約2週間休業した。金融恐慌で受注が激減1923(大正12)年9月に起きた関東大震災は国内経済に甚大な影響を与えた。銀行は支払い不能に京城でも大いに売れた籾摺ロールなった不良手形(震災手形)を大量に抱えていた。国会でその救済方法を審議中、不良会社・銀行の経理内容が明るみに出た。このため銀行に対する不安が大正末期、本社工場にて36