ブックタイトルNaigaiNenshi

ページ
35/204

このページは NaigaiNenshi の電子ブックに掲載されている35ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

NaigaiNenshi

第1章:創業期[1913-1944]114(同3)年に始まった第1次世界大戦は、わが国に飛躍的な発展をもたらした。ヨーロッパ諸国は生産力を軍需に集中し、一般物資への余力を失った機会に、日本の商品はアジア市場をはじめ遠くアフリカ、南米にまで進出した。特に自転車タイヤ工業は目覚ましい発展を遂げた。大戦前までは自転車タイヤは輸入に頼っていたが、大戦勃発の年には輸出をするようになり、その後も漸次増加していき、輸入タイヤは姿を消していった。しかし大戦の終了とともに、世界市場における日本の有利な条件は次第に失われ、生産の拡大は過剰生産を生み、20(同9)年には戦後の反動恐慌に襲われた。一方、第1次世界大戦が終わった18(同7)年頃から、皮革が暴騰した。このため、各地で総ゴム靴工場が競うように乱立した。当社もこの頃、総ゴム靴の生産を始めている。品質に優れた当社の製品は飛躍的な発展を遂げた。声価を上げた当社は19(同8)年、大正天皇の武庫離宮行幸に際して製品の天覧の栄を賜った。工業用品の分野にも進出1915(大正4)年に工場設備の拡張と増設を行った際、工業用ゴム製品の分野にも進出を果たす。これ以降、いくつかの製品が育っていった。特に耐油性や耐薬品性などに優秀な技術を誇っており、20(同9)年、その技術が陸軍に認められて指定工場となり、航空機用耐油ゴム管を納入するようになった。03内外護謨合資会社初代技師長竹内惣七[たけうち・そうしち]1890(明治23)年、奈良県大和郡山生まれ。大塩平八郎の血を継ぐ大塩家で7人きょうだいの末っ子として誕生した。小学5年生の時、竹内家と養子縁組をする。成績優秀で、6年制のところ5年で中学に進学。中学も5年制のところ4年で高校に上がった。その後、東京帝国大学(現東京大学)の応用化学科を卒業した。竹内の大学卒業論文は日本で初めてのゴムに関する論文だった。その論文を読んで感銘を受けた三田土護謨製造合名会社の代表者である田崎留太氏の誘いを受け、同社に入社する。しかし数年後に退社し、1919(大正8)年頃、当社に入社した。竹内はその頭脳と行動力を見込まれ、初代技師長を任された。18(同7)年にパスポートを取得していた竹内は、21(同10)年、アメリカのゴム工業の中心地、アクロンに派遣されることになる。帰国後、アメリカから最新設備を購入し、学んだ技術と独自の構想を組み合わせ、当社、ひいてはゴム工業界の発展に力を注いだ。32(昭和7)年に竹内ゴム研究所を設立し、翌年に退職。研究所ではゴルフボールの研究を進める一方、ゴム製品検査協会大阪検査所顧問として日本ゴム協会に貢献。47(同2 2)年に亡くなるまで相談役として当社に籍を置いた。尺八を趣味とする粋人の一方、1日60本のたばこと3日で2升の酒をたしなむ豪傑で、夕食は酒を飲みながら3時間をかけたという。大日本帝国発行の竹内のパスポート33