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概要

NaigaiNenshi

ような手工業技術であり、ゴム工場で求められる防火設備がマッチ工場に整備されていたこと、さらに取り扱う薬品の中に共通のものが多かったことなどが挙げられる。マッチ産業が衰退し、そこで働く職工たちは他に転職すべき産業がなかったところへ、ゴム産業がにわかに勃興した。産業としての勢いを失いつつあったマッチ業界よりも新興のゴム業界の方が賃金も労働条件も格段に良かったからともいわれている。また、神戸市内でも長田、鷹取方面にゴム工場が集中したのは、広くて安価な土地がたくさん残されていたためで、この地域の農家が畑や水田を坪5円程度の安い権利金で競って貸与したとの記録もある。Naigai Column内外護謨のタイヤは甘い?「内外護謨の人力車用タイヤが強いのは、製品に砂糖が入っているからだ」といううわさがまことしやかに広まった。工員が白い粉をなめたら砂糖のように甘かった、との話から伝わったものだという。その粉は加硫促進剤のHかDのことだと推測される。促進剤があまり知られていなかった時代の話である。02内外護謨合資会社共同出資者岡崎忠雄[おかざき・ただお]1884(明治17)年、神戸生まれ。旧姓石丸。岡崎汽船、神戸海上運送火災保険(後の同和火災海上保険)の創業者であり、貴族院議員も務めた岡崎藤吉郎の養子となり、海運業に従事した。1917(大正6)年養父の財を基礎に、神戸岡崎銀行を設立、常務に就く。27(昭和2)年、養父の死後、頭取に就任。36(同11)年、国の一県一行主義の方針により、兵庫県内の6行と合併して神戸銀行となり、その初代会長に就いた。自著「青海偶話」の中で当時のことを振り返ってこう述べている。「私は、すでに銀行が今までのように個人の銀行として存立していけるような情勢ではない、と思っていた。合併に参加した7行の中にもいろいろ経営難もあった。銀行を個人の手から離し、公の監督の下に置くことは時局の大勢でもあるし、それに順応することが、結局、自分自身のためであった」7行の中で神戸岡崎銀行は最も大きい力を持っていたが、岡崎は「自分はできるだけ謙虚な心持ちをもってことに処する」ことを心掛け、各行は1対1の対等の立場で合併する、各行の従業員はそれぞれの経歴に応じて職務に就かせるなどの腹案を持って合併に臨んだ。この結果、7行の代表者が大蔵省に合併承諾をしてからわずか5カ月というスピードで新銀行の体制が決まった。岡崎はこの後、神戸商工会議所会頭、貴族院議員も務める。戦後は岡崎系の事業のほか、東京計器製造所会長、日豊海運会長、ダイハツ工業取締役などを歴任した。大正期の神戸岡崎銀行本店(左側の建物)(神戸新聞社提供)32