ブックタイトルNaigaiNenshi

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概要

NaigaiNenshi

第1章:創業期[1913-1944]1び、全国の市場に広がっていった。当時、空気入りタイヤ・チューブは1ペア25円で販売された。この頃から、上海市場に進出し、イギリスやフランス製のタイヤと競争したが、当社の「美人牌」(牌は「印」の中国語)は当時としてはユニークなデザインも手伝って、現地でも順調に売れた。14(同3)年は、日本のゴム産業が初めて本格的な輸出に乗り出した年で、人力車、自転車、自動車のタイヤ・チューブがまず先陣を切った。同年の輸出額はいきなり108万6,000円という突出した数字になった。当社の製品もそこに一役買ったのである。総ゴム靴の生産を開始急速に発展を遂げたゴム業界に施設と人材を供給したのが、それまで神戸で最盛を誇っていたマッチ産業だといわれる。兵庫県において明治中期から隆盛を極めたマッチ産業だが、1920(大正9)年を頂点として衰微の道をたどり始める。その頃からマッチ産業の経営者や工場がそのままゴム産業に取って代わられていった。それだけでなく、マッチ産業で働く女性工員がなだれを打つようにゴム産業へと転職していった。その理由としてはゴム産業がマッチ産業と同じ01内外護謨合資会社初代社長榎並充造[えなみ・みつぞう]1879(明治12)年、神戸に生まれる。県立神戸一中(現神戸高)の第2回卒業生で、東京に出て早稲田大学に学んだが、卒業後、父の死去に伴い神戸に戻り、実家の質屋を継いだ。しかし、男前の風貌で社交好きの榎並に地味な質屋の仕事は向かなかった。家業はもっぱら番頭に任せ、外に出歩くことが多かった。ある日、友人を介して阪東直三郎と引き合わされた。阪東は「今、機械のベルトは牛皮製だが、それは木綿で作れる。牛皮だと高くつくが、木綿ならずっと安いので必ず売れる」と持ち掛けてきた。榎並は早速、日本毛織の創業者である川西清兵衛に相談した。先代清兵衛の妻は榎並家から出ている。榎並から見れば、清兵衛はいとこの婿であった。しかも榎並の父は、充造の将来を清兵衛に頼んでいたといういきさつがある。清兵衛と、その友人で当時マッチ業界で活躍していた瀧川辨三が有限責任社員としてそれぞれ2万円を、榎並は1万円を出資し無限責任社員となり1906(同39)年、現在の神戸市兵庫区明和通に阪東式調帯合資会社(現バンドー化学㈱)を設立した。当時、まだ27歳の若さであった。09(同42)年2月、呉の海軍工廠からある話が持ち込まれた。ヨーロッパから高速度鋼切断機を購入したものの、機械についてきたベルトが伸びきって使えず、木綿調帯を試験使用してみたいとのことだった。技師長の阪東を立ち会わせたが、試験運転中にベルトが継ぎ目から切断し、阪東は即死する。大きなチャンスを逃し、倉庫は売れない調帯が山積みとなった。この難関を切り開くために榎並が目を付けたのがゴムベルトの製造だった。慎重に研究を進め、日本初のゴムベルトを世に送り出せる手はずは整ったが、出資者である川西、瀧川が首を縦に振らない。困った榎並は岡崎藤吉郎に相談を持ち掛ける。岡崎は当時岡崎汽船の社長で後に神戸岡崎銀行(後に神戸銀行)の頭取となる人物である。岡崎は榎並を三菱合資会社銀行部(後の三菱銀行)に引き合わせる。こうして内外護謨合資会社の設立が実現した。その後、企業経営だけでなく、ブラジル移民のために私財を投じて日伯協会の創設に携わったほか、神戸商工会議所会頭、神戸女子薬専(現神戸女子薬大)の理事長などを務めた。31