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概要

NaigaiNenshi

た、職工20人、技術員7人、事務員7人、計34人を使用していた。立派な機械設備と人員で製造榎並と共に阪東式調帯合資会社の創業に関わった雀部昌之介は、著書「私は六十年社員」の中で「榎並さんは内外護謨を設立し、人力車と自転車のタイヤ製造を開始した。榎並さんはわが社(阪東調帯)におけるのと同様に、無限責任者(社長)として経営を担当した。私も榎並さんの会計係として内外護謨の設立にいろいろと関係したが、12万円という恵まれた資本金で菅原通に立派な工場を建てられたのを見ると、うらやましくて仕様がなかった。わが社(阪東調帯)は回転資金のやりくりに忙しく、工場は木造平屋建てだった。内外護謨は、1914(大正3)年には早くも空気入りタイヤの製造を始め、上海市場に送り出した人力車タイヤはイギリス、フランス製品とじゅうぶんに競争できたというから立派なもの。18(同7)年の第一次世界大戦の景気に乗って技師長をアメリカに派遣し、技術を研究させるとともに新鋭機械も入れた。新興成長産業の先端を切っていく。ただただわたしどもはうらやましいかぎりであった」と述懐している。社名については当初、東亜ゴムという名称も選択肢の一つにあったが、大阪の紡績関係に内外綿があることから内外護謨を選んだ。マークは、真ん中の円に英文字の「G」を入れ、左右両側に伸びた菱形の翼の中に「内」「外」の漢字を収めた。Gはゴムを表す。内外の市場への飛躍、発展を願い左右に菱の形状をした翼を付けた。その後、このマークは丸菱当社のタイヤをはめた人力車印として広く親しまれることになる。人力車用タイヤ・チューブを海外に輸出工場設立後も貪欲に新たな技術の習得に努めた。1914(大正3)年には、人力車の空気入りタイヤ・チューブを生産するため、阪神護謨製造所から北野宇平を迎え入れた。また、タイヤ貼りの熟練工が必要となったため、ダンロップ護謨から女性工員を雇い入れた。新たな設備としてカレンダーロールを据え付けたものの、ゴムを薄くして出すのが難しく、ダンロップ護謨を退社した坂本福松を迎えた。こうして、経験豊富な技術者、職工を次々に雇い入れ、順調に空気入りタイヤ・チューブの生産が本格化していくことになる。当社のタイヤは耐久力が非常に良いと評判を呼1988(昭和63)年に兵庫ゴム工業会が神戸市長田区の新湊川公園(当時)に建てた「わが国ゴム工業勃興の地」のモニュメント30