ブックタイトルNaigaiNenshi

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概要

NaigaiNenshi

第1章:創業期[1913-1944]1ラバーシーツなどを製造した。次いで後を追うように1 0(同4 3)年には、ダンロップ護謨(極東)株式会社が神戸市葺合区(現中央区)で自転車用タイヤ・チューブの生産を開始した。この2社はもともと資本系統が同一で、初めは他社も加えた共同出資会社として日本に進出する計画であったが、利害が衝突したため、イングラムが抜け駆けしてひと足先に日本に進出していた。1年遅れで進出したダンロップはイングラムを資本力で大きく上回っており、11(同44)年には、ダンロップがイングラムを飲み込むかたちで合併することとなる。国産ゴム技術の向上を狙い創業これではイングラムに勤務していた従業員にとって面白いはずがない。同社のイギリス人技師ウェッグや職工としてゴム配合技術を習得した小松勝二らが、榎並に「ゴム工場をやるなら私たちを使ってくれ」と持ち掛けた。榎並は、1906(明治39)年4月に阪東式調帯合資会社(現バンドー化学株式会社)を設立し、木綿調帯(ベルト)を製造していた。当時の日本はゴム製品のほとんどを輸入に頼っており、国内のゴム会社の技術もまだ幼稚なものであった。榎並は、輸入を防止するためにも、諸外国に伍していけるゴム生産技術の向上は急務と考え、ちょうどゴムベルトへの進出に踏み出そうとしていた時期であった。ウェッグ、小松らの申し出を聞いた榎並は、ゴム技術が習得できる良い機会と考え、岡崎や河西善兵衛(元町のゴム工業薬品商)らを誘って、内外護謨を設立する。工場長は田中武一郎、営業部には山田政二郎、井手星一、技術者としてイギリス人のウェッグとコースト、小松、他には森井六郎、桜井茂三郎らでスタートした。薬品を広範囲に納入し広い人脈を持っていた河西が原料、薬品の調達や土地の手当てに奔走し、神戸市林田区(現長田区)菅原通にある約500坪の土地を借り入れることになった。当時、この周辺は見渡す限り青々とした田園風景であったという。土地が低かったので1尺5寸ほど地上げをし、13(大正2)年2月中旬から工場建設にかかり、6月に棟上げをした。基礎工事から機械の据え付けまで従業員が協力して行った。工場完成は10月で、11月にボイラーの火入れ式を行い、翌14(同3)年から本格的に作業を開始した。当社は創立当時から日本人工場としては珍しく大規模で、技術も優秀であったといわれる。創立時の機械設備はボイラー6尺×24尺が1基、洗ロールが1台、練ロール12インチが3台、糊引き機が1台、攪拌機が1台、押し出し機6インチが1台、加硫缶が1台、カレンダーロールが1台であった。ま創業間もない頃、工場の煙突をバックに全従業員が収まった一枚29