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概要

NaigaiNenshi

ともに話はストップした。話が再び動き出したのは80(同55)年。大学硬式野球海外親善チームの役員として、後にナイガイサービス会長となる茨木が訪比した際のことであった。この時、茨木が現地の市場を調査したところ、シー氏が面会時にあらためて現地生産の協力を求めてきた。その後、現地調査を何度か行い、派遣技術者の労働条件、生産スケジュールの細目などを詰めていった。途中、試作品で鼻緒の練りゴムの変色、スポンジ板の収縮、さらには作業者のアレルギー対策にも奔走した。最大のピンチは、87(同62)年にアキノ政権が誕生して以降、労働組合運動が激化したことであった。このためいったんは技術援助の話が中断した。外貨不足、円高基調、採算性と、どれをとっても困難ばかりであったが、10年がかりの交渉の結果、89(平成元)年、シー氏率いるベストラバー社との技術援助契約締結に至った。シー氏からはそれまで何度か合弁会社設立の案を持ち掛けられたが、当時の国際情勢やフィリピンの対外信用度、カントリーリスクなどを鑑み技術援助契約にとどまった。ブルーダイヤの発注を開始1990(平成2)年、マニラの委託工場に対し、ビーチサンダル「ブルーダイヤ」の発注がスタートした。日本で売れるのは数万足だったが、当社経由でアメリカへ輸出する「ビーチウォーク」やベストラバー社ブランドのフィリピン国内販売用のものを含めると月産100万足を数えた。それまでの日本国内での外注工場からフィリピンの工場へと切り替えを図ったことにより、大幅なコストダウンにつながった。発注品の中に「黒天コンビ」という名称の商品があった。これは、ビーチサンダルのソール上半分が全て黒、下半分が白、黄、赤、青、その他いろいろ、花緒下半分の色と同色の商品であった。するとマニラから「『黒天』のビーチサンダルなんか売れるのですか。こちらでは葬式の時にしか履くことはないのに」と返ってきた。しかし後にマニラでも、黒天コンビはよく売れるようになった。新規工場でのニューモード生産1990(平成2)年頃のニューモード加工工場(数社の外注工場)は従業員の高齢化が進み、最盛期(12月~3月)に十分対応できるのか一抹の不安があった。そんな折、ゴム工業資材株式会社から「新工場を造り、ニューモードの生産加工をしたい」との話が舞い込んできた。底の加工から成型、仕上げまでを一貫して行うとの条件だった。当社はゴム工業資材に対して月産3~4万足が可能な設備を貸与し、他工場より高い加工費で発注した。ゴム工業資材は平均年齢約40歳の若い従業員をそろえたが、創業から半年経っても従来の外注工場の60~70%の能力しか発揮できなかった。それほどニューモードの成型は難しかったのだ。ゴム工業資材の工場は、残念ながら数年後に廃業することになる。マニラ加工・プロジェクトチーム1991(平成3)年、ニューモードの底を現地で製造するため「マニラ加工・プロジェクトチーム」を結成。翌年には、加工に必要な全ての設備、備品、ベストラバー社の工場で「黒天コンビ」の包装作業工具の準備が完了した。スポンジのモールド、加98